沖縄探訪その1 ペリーの秘密 [沖縄探訪]
沖縄に移り住んで2年、内地にいるとなかなか分からないことがたくさんあるってことが少しずつ分かってきました。
今回は、日本史の教科書や普通の観光ガイドブックにはおそらく載っていない、琉球、沖縄の歴史について
紹介しようかと思い付きました。
ということで、新シリーズ「沖縄探訪」、栄えある第1回 (単なる思い付きなんで、2回目があるのかは知らん)
「ペリーの秘密」
日本人ならまず皆が知っている、有名人ペリーさん。
黒船に乗って田舎町浦賀にやってきたのは、1853年7月(当時の日本が採用していた太陰暦では6月)。
ペリーさん御一行がわざわざ遠い日本にやって来たのは物見遊山ではなく、捕鯨船(捕鯨は当時盛んだった)の
物資補給のための寄港地として使う、というのが主な理由だそうです。
それと、当時は大帝国時代、エゲレス等のヨーロッパ各国に遅れをとっていたアメリカは、日本を植民地化し、
日本を足がかりに中国侵攻、という狙いもあったようですね(こっちがメインだった、という話もあります)
そのペリーさんですが、用意周到な方だったらしく、日本との交渉が決裂した場合に備えて、
前月の6月に琉球王国に寄り道してるんです。
当時の琉球王国の国王、尚泰(しょう・たい)さんが対応して、琉米修好条約を嫌々ながら締結してます。
1840年のアヘン戦争で清が負けた情報は当然ながら琉球王国にも伝わってて、交渉を突っぱねて戦争になっても
欧米諸国には武力で勝てないのを知っていたから、らしいです。ま、そこは日本も同じですね。
そのペリーさんご一行の琉球初上陸記念に建てられた碑が那覇市泊(とまり)の外人墓地の一角にあります。
なお、名前が「ペリー」ではなく「ペルリ」となっているのは、当時通訳したのがオランダ人で、オランダ語の発音がペルリだったから、だそうです。
余談ですが、捕鯨についてですけど、あいつら欧米人は鯨を捕まえて、鯨油を絞って、後は食べずに捨ててたんです。
まだアメリカのドレーク油田が発見(1859年)される前、ランプの灯かり用として鯨油は貴重だったんですね。
それに比べると、日本の場合は、鯨を貴重な蛋白源としてほぼ全てを食べてましたよね。(自分は給食で出た鯨の竜田揚げが好きでした)
油だけ絞って大部分を捨ててた連中が、鯨は哺乳類で頭がいいから食べちゃいけない、可愛そう、という感情論で捕鯨を禁止しろ、というのには頭にきてます。
それならなぜ同じ哺乳類の牛や豚はなんでOKなの?
・・・スミマセン、話がそれました。(ここで捕鯨反対の方と討論をする気はアリマセン)
ペリーにまつわる話に戻ります。
那覇市の西部に山下町という町があり、ここには「ペリー」を冠した店が散見されます。
その理由は、ペリーさん来航記念、って訳じゃありません。
第二次世界大戦後、沖縄がアメリカに占領されて統治下になった際、米軍のお偉いさんが
「 Oh!! コノタウンハ、ジェネラルヤマシタト、
オナジネーム、ジャア~リマセンカ。(おめーはチャーリー浜かっての)
ミーハフィリピンデ、ヤマシタニクルシメラレマーシタ。
ヤマシタヲツカウノハ、ミーガユルシマセーン!!
ネームヲペリーニチェンジシナサーイ!! 」
と言ったのかどうかは知りませんが、強制的に山下町から「ペリー町」に変更サレマーシタ(おっと、変換ミス)
*ジェネラルヤマシタ(山下大将)とは? : 第二次世界大戦中の日本軍陸軍大将。
「マレーの虎」と呼ばれ、当時日本ではヒーローだったそうです。
その後、1957年に元の山下町に戻ったんですが、当時の名残でペリーという名前が店名とかに残ってるんだそうな。
以上、第1回沖縄探訪、「ペリーの秘密」でした。