沖縄探訪その2 薩摩侵攻 [沖縄探訪]
まだ何とかエアコンを使わずに過ごしてますけど、いつまで我慢できることやら。。。
さて、思いつき出始めた沖縄探訪、第2回は「薩摩侵攻」です。
沖縄県は昔は琉球王国であり、日本とは別の国だったことは皆さん知ってるかと思います。
まず、その辺のごく簡単な歴史から。
12世紀頃までは明確な国家という存在はなかったようですね。
13世紀頃から、富と権力を持った指導者は各地にグスク(城)を築いて周辺地域を支配するようになり、
お互いが勢力抗争を広げてました。
14世紀の南山、中山、北山の三山時代を経て、1429年に三山とは別の勢力であった尚巴志(しょう・はし)さんが
三山を滅ぼし、沖縄本島を統一して琉球王国が成立しましたとさ。
以上です。(これだけかい?)
こちら、北山の拠点だった今帰仁(なきじん)城の跡地です。世界遺産に登録されてます。
このような城跡は沖縄本島内あちこちにあります。
なお、沖縄で見られるグスクは、「城」という漢字をあてるので内地の城と同じと思いがちですが、
内地の城は軍事拠点で指揮官の居所であったのに対して、琉球王国のグスクは軍事拠点ではなく、
単に王の住居、もしくは斎場としての役割だったようです。
その琉球王国ですが、東シナ海に位置するという地の利を生かし、
人口十数万人という小国ながら中国、日本、東南アジア間の中継貿易でそれなりに繁栄してました。
こちら、王様の尚さんちだった、首里城。
こちらは、尚さんちの玄関だった(違う)、守礼門。
でも首里城外の楼門のひとつだから、玄関っていう表現は全く間違ってる、って訳じゃないかな?
それから百数十年、日本は室町から戦国時代を経て、江戸時代に移行。戦乱が終わって平和な時代になりました。
そんな中、薩摩藩は1609年、琉球王国に侵攻します。これを
「薩摩侵攻」
といいます。
侵攻に到るまでの背景には、秀吉の朝鮮出兵辺りから色々と伏線があったようですね。
戦国時代を生き残った薩摩藩の攻撃力には歯が立たず、琉球王国は薩摩藩の軍門に下り、ミツグ君(死語だな)になったものの、
滅ぼされることは無く、独立した王国として存続しました。
薩摩藩が琉球王国を滅ぼさなかったのは諸説ありますが、鎖国中の日本(実際の鎖国はもう少し後ですが)で中国(当初は明、その後は清)と
貿易できるのは長崎に限られてたんで、薩摩は琉球王国を介して中国との貿易をしたかったようです。
なので、琉球王国は薩摩に搾取されまくり!!、のミツグ君、ではなく、
薩摩藩からお金を受け取り、中国製品を買って来るパシリのような存在だったようです。
琉球王国は薩摩藩の軍門に下ったとはいえ結構したたかで、わざと粗悪品ばかりを買い込んできたり、
「中国でサギにあって預かったお金を全部取られた」というウソの報告をするなど、
色々と抵抗してた、ということが薩摩側の資料に残っているそうです。
とはいえ、薩摩藩は琉球王国からの貢物で潤ったのは事実で、その利益は幕末の討幕運動の時、西郷どんの財力となったようです。
(薩摩藩は石高は多かったものの、シラス台地のために実際の米生産量は石高ほど高くなく、琉球からの貢物がなければ窮乏してたみたいですね)
かたや琉球王国も、薩摩と中国の間で両方の文化を吸収し、独自文化を育てて行きました。
その文化の一例はこんなもの。
1.豚肉:中国の使者接待のため、王府が養豚奨励。
牧志公設市場に置いてあるホンモノです。
2.サトウキビ:日本へ輸出する特産品として王府が生産奨励。江戸時代、砂糖は貴重品でしたからね。
こちら、植えたばかりのサトウキビ畑。ここから1年半育てて刈り取ります。
3.泡盛:中国、日本両国への献上品として王府が管理。
先日も紹介した幻の泡盛、「泡波」です。
今の沖縄文化の基礎がこの時期に作られたんですね。
去年2009年は侵攻から区切りの400年ということで那覇市内で展示会をやってました。
(さすがに侵攻なんで400周年記念、とかという表記じゃなかったですが)
そんな琉球王国と薩摩藩の関係は幕末まで続きますが、明治維新とともに大きな転機を迎えます。
沖縄探訪、次回に続きます。
(なんか、歴史の教科書みたいになっちゃいましたね)