沖縄探訪 その5 沖縄のシチグヮチ ウンケー、ナカヌヒー、ウークイ [沖縄探訪]
皆さんご存じのとおり、今年の夏の甲子園は島袋投手を擁する沖縄代表興南高校が春夏連覇しましたね。
神奈川出身、沖縄在住の自分としては最高の組み合わせの決勝戦でしたが、見てて複雑でしたね。
他の県は知りませんが、沖縄県の場合、沖縄代表が試合している間、(結構真面目な話)経済活動は停止します。
金曜日の準決勝の日、事務所にいましたけど、試合中は全く電話はかかってきませんでした。
あぁ平和だね(笑)
さて、カテ「沖縄探訪」、前回は「慰霊の日」とかなり重い内容でしたが、今回はたいした内容ではありません。
内地の場合、一般的なお盆休みは旧盆中日の8月15日前後ですが、
沖縄の旧盆(シチグヮチ)は旧暦の7月13日から15日に行われます。
今年は
8月22日がウンケー(お迎え)
8月23日がナカヌヒー(中の日)
8月24日がウークイ(お送り)
です。
なので、今回の題を標準語で書くと、
「沖縄の旧盆 お迎え、中の日、お送り」
となります。
このように旧盆中は沖縄の会社やお店は休みの場合が多いんです。
自分が勤務してる会社は関係ないんですけど、取引先が休みなんでこの間は結構ヒマですねー。
お供え用としてなぜか青バナナが売ってました。
元々うちなーんちゅは海で泳ぐ、という習慣がありませんが(海でやるのはビーチパーリィのみ)
シチグヮチの間はうちなーんちゅは海に行きません。漁師も海に出ないそうです。
霊が戻るときに一緒に連れて行かれる、という言い伝えがあるそうです。
(と、隣の席のうちなーんちゅの先輩が申しておりました)
コチラ、本文には全く関係ありません(笑) なんか夏っぽいでしょ?
他にシチグヮチのことを色々書こうと思ったんですけど、内地のお盆とやることはあんま変わらないんで省略します(笑)
< おまけ >
盆には、当然墓参りもするかと思いますが、こないだこんなてーげーな看板を見つけました。
近くにあるんならじゃあ買いに行こうか、って買うようなものじゃないと思うんですけどねー。
あと「送迎無料」はどこまで無料なんでしょうか?(笑)
沖縄探訪その4 慰霊の日 [沖縄探訪]
5月25日に記事にした、『沖縄探訪その3 「琉球処分」って何? 』をもってカテゴリー「沖縄探訪」は書かないつもりでしたが、
今回は、本日6月23日のことを簡単に書こうと思います。
なお、結構重い内容です。適当にスルーしてください。
時は第2次世界大戦末期。
1945年3月、アメリカ軍は日本本土攻略のための航空基地確保を目的とし、沖縄本島に攻め込みます。
まず、3月26日に慶良間諸島に上陸、占領した後、4月1日、北谷(ちゃたん)の海岸から本島に上陸します。
その際、日本軍は水際での上陸阻止作戦はとらず、アメリカ軍は無血で上陸します。
前年のサイパン戦で水際作戦を取ったところ、日本軍は短期間で玉砕してます。
そのためもあり、戦力的に劣る日本軍は水際作戦は止め、地上戦に持ち込み、持久戦を取ります。
兵力差を考えると勝てる見込みの無い戦いであり、本土決戦に備えた時間稼ぎであったようです。
その後圧倒的な物量と人員をもつアメリカ軍は徐々に勢力を拡大し、5月31日に日本軍の司令室があった首里城を占領します。
(この時、首里城、守礼門他、今残っていれば世界遺産に登録されたであろう、歴史的建造物を徹底的に破壊しました。)
日本軍司令部は首里城を離れ南部に撤退しますが、6月11日に陸軍部隊は玉砕し、6月23日、司令官である牛島中将は自決します。
この6月23日をもって沖縄県内において、組織的な戦闘が終結した、とされております。
6月23日で組織的な戦闘は終わり、日本軍は解体しましたが、これで平和が訪れたわけではなく、むしろこれからが悲惨を極め、
事情を知らない兵士や一般民間人の犠牲者はその後も増え続けました。
政府はいまだに認めませんが、集団自決も各地であったようです。
沖縄戦における民間人の犠牲者約10万人のうち、半数以上は6月23日以降に亡くなった、という統計もあるようです。
司令官の牛島中将は一般民間人の巻き添えをいかに防ぐかを色々と画策していたようですが、
大本営自体が沖縄は本土決戦に備えるための捨石、と見ていたため、ほとんど何も出来ずに終わってしまったようです。
この6月23日を沖縄県は「沖縄県慰霊の日を定める条例」によって「慰霊の日」と定めました。
官公庁や小中学校は休みとなり、沖縄全戦没者慰霊祭が執り行われます。
こちら、慰霊祭が行われる糸満市摩文仁(まぶに)の平和祈念公園です。
沖縄に来て、ここに何度か足を運びましたが、どうしてもここでは写真を撮る気になれないんです。
なので、この写真はWikipediaより借用しました。
色々と個人的な感想等を書きたいのですが、今回は止めておきます。
こんな話にお付き合いくださり、ありがとうございました。
なお、今回NICEは閉じておきます。
一応、コメ欄は開けておきますが、内容が内容だけに、コメなしで結構です。
ではまた。
沖縄探訪その3 「琉球処分」って何? [沖縄探訪]
この写真、今回の記事には全く関係ありません。記事にあった写真が無いんでね。
「琉球処分」
この言葉、日本史ではおそらく出てこないはずなので、知らない方が多いんじゃないですかね?
自分も沖縄に来るまでは全く知りませんでした。
ということで、思いつきで始めた沖縄探訪、第3回は「琉球処分」です。
なお、今回は内容に合った写真がないんで文章ばかりです。読むのがメンドーな方は適当にスルーしてくださいね。
前回は薩摩侵攻によってその軍門に下った琉球王国の話でしたが、その続きです。
中国と日本の狭間で、うまくバランスをとりながら独立した国家として存続してきた琉球王国ですが、19世紀末に終焉を迎えます。
1868年、日本は江戸時代が終わり明治に移り、1871年の廃藩置県で薩摩藩は鹿児島県になります。
これによって日本は地方分権国家から強力な中央集権国家になり、琉球王国を支配するのは薩摩藩(鹿児島県)から明治政府に移行しました。
実は明治維新よりこの廃藩置県の方がものすごいドラスティックなことでして、
極論すれば、明治維新は自民党から民主党に政権が変わっただけ、みたいなものなんです。
民主党に代わっても明確な政策は打ち出せず、日本はほとんど変化がありませんが、この廃藩置県は日本の体制を根本的に変える制度改革だったんです。
江戸時代、各藩は権力をもって藩を経営してましたけど、廃藩置県によって藩の権力を全て取り上げ、明治政府に権力を集中させたんですね。
さらに政府に反旗を翻さないよう、藩主はすべて東京に強制的に移住させられます。
こうして、中央集権で日本の総合的な国力を上げることによって、欧米列強国と対抗して行こうとしたんです。
世界各地が欧米の植民地と化していた19世紀後半、おそらく正しい行動だったのでしょう。
(えらくまじめな日本史の講義だな・・・・)
1872年、「琉球は日本の領土なんだよ」という明治政府の主張の元に琉球藩が設置され、鹿児島県の管理下に置かれました。
その後1879年に琉球藩は廃止され、沖縄県が設置されました。
尚さん一族が支配して450年続いた琉球王国はここで幕を閉じました。これを
「琉球処分」といいます。
琉球王国の最後の国王、尚泰(しょう・たい)さんは他の藩主と同様、東京に強制的に移住させられ、その後は侯爵として過ごされたそうです。
なお、世界的に見ても、同じ王家が支配し450年もの間続いたのは最長の部類に入るようですね。
この話は、ここで終わりません。
1872年の領土宣言に対して、琉球王国とつながりの深かった隣国の清から「琉球を勝手に日本に併合するんじゃねぇよ」、と強い抗議があり、
明治政府は「宮古、八重山はあんたにやるからまぁ勘弁してくれや」ということでケリをつけようと談合してたそうです。
清としては、「そんな程度じゃ納得できん」と話し合いは長引き、最後には米国大統領が仲裁(*1)に入って、
最終的には日本からの提案どおり、宮古、八重山の島々(とそこに住む島民)を清に渡すことでケリをつける、ってことになったそうな。
(どこにも琉球王国の方々の意向は反映されてないですね)
でも、1894年に日清戦争が勃発しちゃって話し合いは中断し、戦争の日本勝利によって宮古、八重山の
譲渡の話はなかったことになっちゃいましたとさ(戦勝による領土分割で台湾が日本領土になっちゃいましたしね)
※1
ここ、重要なポイントです。
以前記事で紹介した、1853年のペリーの琉球来訪に見て取れるように、米国は琉球王国を日本とは別国としてしっかり認識してるんです。
第二次世界大戦後、米国は沖縄を占領しましたけど、「琉球は日本に同化された異民族である」、というのもその根底にあったんです。
なので琉球を日本から切り離すことを考えていたようです。まぁ、おそらくサイパンのような統治領として支配したかったんでしょうけど。
その後1950年に朝鮮戦争が起こり、沖縄は極東の最重要軍事基地という位置づけになり(現在の普天間基地問題の根幹です)、
基地強化のために米軍による土地の強制収用が起こります(沖縄本島の10%の面積が米軍基地になってます)
さらに1952年、米国は琉球政府を設立し、琉球政府を米国の傀儡政権としてコントロールしようとします。
それらに怒った人々を中心にやっぱ米国じゃダメだ、ということで日本復帰運動が高まり、1972年の本土復帰につながるんです。
話はそれますが、今、世界各地で民族紛争が起こってます。
キャスターと名乗ってるのに何も分かってない底の浅いヤツラがニュースで「日本は単一民族国家ですから」
などと言ってるのを時々耳にしますが、その都度「あんたらもうちょっと歴史を勉強しろや」と思ってます。
日清戦争がなかったら、宮古、八重山は中国の領土となり、この宮古島の前浜ビーチもパスポートがないと行けなかったんですねー。
また、日清戦争で日本が負けてたら、もしかしたら沖縄全体が中国の領土になっていたかもしれないんですね。
大筋では間違ってないんですが、どうしても文章中心になっちゃうし、堅苦しさが抜けないですね。
こんな話に最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。
ではまた。
沖縄探訪その2 薩摩侵攻 [沖縄探訪]
まだ何とかエアコンを使わずに過ごしてますけど、いつまで我慢できることやら。。。
さて、思いつき出始めた沖縄探訪、第2回は「薩摩侵攻」です。
沖縄県は昔は琉球王国であり、日本とは別の国だったことは皆さん知ってるかと思います。
まず、その辺のごく簡単な歴史から。
12世紀頃までは明確な国家という存在はなかったようですね。
13世紀頃から、富と権力を持った指導者は各地にグスク(城)を築いて周辺地域を支配するようになり、
お互いが勢力抗争を広げてました。
14世紀の南山、中山、北山の三山時代を経て、1429年に三山とは別の勢力であった尚巴志(しょう・はし)さんが
三山を滅ぼし、沖縄本島を統一して琉球王国が成立しましたとさ。
以上です。(これだけかい?)
こちら、北山の拠点だった今帰仁(なきじん)城の跡地です。世界遺産に登録されてます。
このような城跡は沖縄本島内あちこちにあります。
なお、沖縄で見られるグスクは、「城」という漢字をあてるので内地の城と同じと思いがちですが、
内地の城は軍事拠点で指揮官の居所であったのに対して、琉球王国のグスクは軍事拠点ではなく、
単に王の住居、もしくは斎場としての役割だったようです。
その琉球王国ですが、東シナ海に位置するという地の利を生かし、
人口十数万人という小国ながら中国、日本、東南アジア間の中継貿易でそれなりに繁栄してました。
こちら、王様の尚さんちだった、首里城。
こちらは、尚さんちの玄関だった(違う)、守礼門。
でも首里城外の楼門のひとつだから、玄関っていう表現は全く間違ってる、って訳じゃないかな?
それから百数十年、日本は室町から戦国時代を経て、江戸時代に移行。戦乱が終わって平和な時代になりました。
そんな中、薩摩藩は1609年、琉球王国に侵攻します。これを
「薩摩侵攻」
といいます。
侵攻に到るまでの背景には、秀吉の朝鮮出兵辺りから色々と伏線があったようですね。
戦国時代を生き残った薩摩藩の攻撃力には歯が立たず、琉球王国は薩摩藩の軍門に下り、ミツグ君(死語だな)になったものの、
滅ぼされることは無く、独立した王国として存続しました。
薩摩藩が琉球王国を滅ぼさなかったのは諸説ありますが、鎖国中の日本(実際の鎖国はもう少し後ですが)で中国(当初は明、その後は清)と
貿易できるのは長崎に限られてたんで、薩摩は琉球王国を介して中国との貿易をしたかったようです。
なので、琉球王国は薩摩に搾取されまくり!!、のミツグ君、ではなく、
薩摩藩からお金を受け取り、中国製品を買って来るパシリのような存在だったようです。
琉球王国は薩摩藩の軍門に下ったとはいえ結構したたかで、わざと粗悪品ばかりを買い込んできたり、
「中国でサギにあって預かったお金を全部取られた」というウソの報告をするなど、
色々と抵抗してた、ということが薩摩側の資料に残っているそうです。
とはいえ、薩摩藩は琉球王国からの貢物で潤ったのは事実で、その利益は幕末の討幕運動の時、西郷どんの財力となったようです。
(薩摩藩は石高は多かったものの、シラス台地のために実際の米生産量は石高ほど高くなく、琉球からの貢物がなければ窮乏してたみたいですね)
かたや琉球王国も、薩摩と中国の間で両方の文化を吸収し、独自文化を育てて行きました。
その文化の一例はこんなもの。
1.豚肉:中国の使者接待のため、王府が養豚奨励。
牧志公設市場に置いてあるホンモノです。
2.サトウキビ:日本へ輸出する特産品として王府が生産奨励。江戸時代、砂糖は貴重品でしたからね。
こちら、植えたばかりのサトウキビ畑。ここから1年半育てて刈り取ります。
3.泡盛:中国、日本両国への献上品として王府が管理。
先日も紹介した幻の泡盛、「泡波」です。
今の沖縄文化の基礎がこの時期に作られたんですね。
去年2009年は侵攻から区切りの400年ということで那覇市内で展示会をやってました。
(さすがに侵攻なんで400周年記念、とかという表記じゃなかったですが)
そんな琉球王国と薩摩藩の関係は幕末まで続きますが、明治維新とともに大きな転機を迎えます。
沖縄探訪、次回に続きます。
(なんか、歴史の教科書みたいになっちゃいましたね)
沖縄探訪その1 ペリーの秘密 [沖縄探訪]
沖縄に移り住んで2年、内地にいるとなかなか分からないことがたくさんあるってことが少しずつ分かってきました。
今回は、日本史の教科書や普通の観光ガイドブックにはおそらく載っていない、琉球、沖縄の歴史について
紹介しようかと思い付きました。
ということで、新シリーズ「沖縄探訪」、栄えある第1回 (単なる思い付きなんで、2回目があるのかは知らん)
「ペリーの秘密」
日本人ならまず皆が知っている、有名人ペリーさん。
黒船に乗って田舎町浦賀にやってきたのは、1853年7月(当時の日本が採用していた太陰暦では6月)。
ペリーさん御一行がわざわざ遠い日本にやって来たのは物見遊山ではなく、捕鯨船(捕鯨は当時盛んだった)の
物資補給のための寄港地として使う、というのが主な理由だそうです。
それと、当時は大帝国時代、エゲレス等のヨーロッパ各国に遅れをとっていたアメリカは、日本を植民地化し、
日本を足がかりに中国侵攻、という狙いもあったようですね(こっちがメインだった、という話もあります)
そのペリーさんですが、用意周到な方だったらしく、日本との交渉が決裂した場合に備えて、
前月の6月に琉球王国に寄り道してるんです。
当時の琉球王国の国王、尚泰(しょう・たい)さんが対応して、琉米修好条約を嫌々ながら締結してます。
1840年のアヘン戦争で清が負けた情報は当然ながら琉球王国にも伝わってて、交渉を突っぱねて戦争になっても
欧米諸国には武力で勝てないのを知っていたから、らしいです。ま、そこは日本も同じですね。
そのペリーさんご一行の琉球初上陸記念に建てられた碑が那覇市泊(とまり)の外人墓地の一角にあります。
なお、名前が「ペリー」ではなく「ペルリ」となっているのは、当時通訳したのがオランダ人で、オランダ語の発音がペルリだったから、だそうです。
余談ですが、捕鯨についてですけど、あいつら欧米人は鯨を捕まえて、鯨油を絞って、後は食べずに捨ててたんです。
まだアメリカのドレーク油田が発見(1859年)される前、ランプの灯かり用として鯨油は貴重だったんですね。
それに比べると、日本の場合は、鯨を貴重な蛋白源としてほぼ全てを食べてましたよね。(自分は給食で出た鯨の竜田揚げが好きでした)
油だけ絞って大部分を捨ててた連中が、鯨は哺乳類で頭がいいから食べちゃいけない、可愛そう、という感情論で捕鯨を禁止しろ、というのには頭にきてます。
それならなぜ同じ哺乳類の牛や豚はなんでOKなの?
・・・スミマセン、話がそれました。(ここで捕鯨反対の方と討論をする気はアリマセン)
ペリーにまつわる話に戻ります。
那覇市の西部に山下町という町があり、ここには「ペリー」を冠した店が散見されます。
その理由は、ペリーさん来航記念、って訳じゃありません。
第二次世界大戦後、沖縄がアメリカに占領されて統治下になった際、米軍のお偉いさんが
「 Oh!! コノタウンハ、ジェネラルヤマシタト、
オナジネーム、ジャア~リマセンカ。(おめーはチャーリー浜かっての)
ミーハフィリピンデ、ヤマシタニクルシメラレマーシタ。
ヤマシタヲツカウノハ、ミーガユルシマセーン!!
ネームヲペリーニチェンジシナサーイ!! 」
と言ったのかどうかは知りませんが、強制的に山下町から「ペリー町」に変更サレマーシタ(おっと、変換ミス)
*ジェネラルヤマシタ(山下大将)とは? : 第二次世界大戦中の日本軍陸軍大将。
「マレーの虎」と呼ばれ、当時日本ではヒーローだったそうです。
その後、1957年に元の山下町に戻ったんですが、当時の名残でペリーという名前が店名とかに残ってるんだそうな。
以上、第1回沖縄探訪、「ペリーの秘密」でした。